こんにちは、サチヲです。
実はこの言葉、マタイによる福音書 7:1-5(『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年 による)に書かれている言葉のようでした。正確には…
- 人をさばくな。自分がさばかれないためである。 2あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 3なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 4自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 5偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
とありました。
私の尊敬する人が仏教に通じていたり、キリスト教に通じていたりと色々とありますので“ついでに”その世界の考え方を学べるので好都合なのです。
【ことわざ】『他人の目の中にあるチリを払う前に、自分の中にあるハリを取り除きなさい』 | 日本のことわざかと思いきや…キリスト教からの抜粋だったのですね!
原文を知るのはいことです。
ただ、もっとしっかりしないといけないのは、そこには“普遍的な考え方”があるということです。
それが今回の言葉の意味する『他人を裁く行為の戒め』ということです。
福音書 7:1-5の解釈として…
兄弟の目に入ったゴミを取り除こうとする者が、自分の目にずっと大きいゴミが入っている、という構図は、兄弟を規制しようとする者はしばしばより深刻な暗愚(物事の良し悪しを理解する能力が欠けている状態)と偽善(善良であると偽ること)に陥っているということを、隠喩(メタファー)として示すものである
とあるように…
人のアラが気になってしまうんですよ。
なにか間違いを見つけるとコメントしたくなるんですよ。
自分の正義の元に、他人を評価しちゃうんですよ。
ただし、よーく自分を見てみると…同じかそれ以上のアラがあったりするのです。
だから「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」とルルーシュも言っていたように…
裁くな、裁かれるぞ。
与えなさい。与えられるから。
という流れになる事を覚悟しなくてはならないのです。
最後に
今回は、最近思い出して勉強している『原理原則』に繋がることですね。
気をつけます。
ではまた。