LOUDNESSを語る前にLAZYでしょ | 高崎晃と樋口宗孝の苦悩の先に生まれたモノ
こんにちは、サチヲです。
左から、樋口宗孝。高崎晃。二井原実。山下昌良。この格好をみてのとおり『ボンジョビ』や『モトリクルー』が流行っていた1980年代ですね。
ちなみに、コレが1stアルバム『THE BIRTHDAY EVE 〜誕生前夜〜』の音源です。これを聞いてから、後に出てくるレイジーのYouTubeの変化を感じてください。この物語の『重み』が伝わると思います。
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☆★☆☆★☆もくじ
高崎晃と樋口宗孝の苦悩の先に生まれたモノとは。。。そりゃLOUDNESSでしょ。
しかしというか、やはりLOUDNESS(ラウドネス)を語る前にLAZY(レイジー)を語らねばならない。
ムッシュかまやつ氏との出会い
1976年11月。関西ローカルの深夜番組「ハローヤング」という、毎週オーディションを勝ち抜いたアマチュアバンドが演奏できるコーナーがあり、そこでディープ・パープルの「BURN」を演奏しました。演奏後、司会の1人だったかまやつひろし(ムッシュかまやつ)さんの控室に招かれました。そして一言。「君たち東京でプロにならないか」という、絵にかいたような流れです。
その時のメンバーが、
当時高校生だったギターの『高崎晃』(後のラウドネス不動のギタリスト。日本のメタル界の宝)。
ボーカルにその幼馴染の『景山浩宣』(後のアニメソングの帝王と呼ばれる影山ヒロノブ)。
ベースに『田中宏幸』。
キーボードに景山の高校生の同級生の『井上俊次』(後のアニソンビジネスの立役者の一人。バンダイナムコアーツの井上俊次副社長)。
ドラムに高崎の通う高校の2年先輩の『樋口宗孝』(後にラウドネスのドラム。誰もが認める日本を代表するドラマー)。
という、当時からは想像できないほど豪華なメンバーでしたね。
これでハードな音楽でデビューできる!と思って上京し、SME(ソニーミュージックエンターテイメント)からデビュー!!
しかし、制作サイドの意向によりベイ・シティー・ロラーズ(当時イギリスで流行っていたアイドルポップロックバンド)のようなイメージを要求されこんな姿に。
あの、ひぐっつあん(樋口宗孝)がデイビーですよ。今、たっかん(高崎晃)にスージーって呼んだらKOROされますね。
みんな違和感のあるニックネームを受け入れるだけの中、さすが年長者のひぐっつあんは違います。
「嫌です。12月24日(クリスマス・イブ)生まれなので『イブ』にしてください」と反論しました。が、女性の名前みたいだからと即却下。
更に髪型については、井上俊次曰く。
「PEEK-A-BOO」という有名な美容院に連れて行かれました。どのような髪形にするのかも教えられないままにバッサリ。
ぼくらは「あっ……」。ハードロックもロンドンブーツも似合わない格好になってしまった。
デビュー前と話が違うという、これまた絵にかいたような流れになります。
長かった髪は切られ、キャッチフレーズが『和製ベイ・シティー・ロラーズ』。そしてニックネーム。最後にテーマカラーというのが決められました。それはトリコロールカラーといわれる赤・青・白。意味は、情熱の赤、青春の青、純粋な白とのことです。。
いや、こんなに話が違うのによくやりましたよ。
これまたお約束ですが、「売れれば好きなハードロックができる」との説得を受け、これに応じるという絵にかいたような流れ。
しかし、なかなか売れなかったんですよね。
1977年、『Hey! I Love You!』という曲で史上最年少のロックバンドとして平均年齢16歳でデビュー!という感じでしたが、すぐに売れたわけではありませんでした。
しかもデビュー曲は、いわゆる『トラ立て』。当時メンバーはシャッフルのリズムが得意ではなく、スタジオミュージシャンの演奏でデビューするという屈辱も味わっています。
これで売れているならメンバーもやる気も出たんでしょうが、、、
実際、高崎晃は「ロックは弾けてもポップは弾けないと分かったので、将来のことを考えて音楽性を広げるために真面目に練習したが、ストレスは溜まった」と語っていました。
更にメディアの扱いについて、井上俊次曰く。
デビュー前から情報番組「ぎんざNOW!」に出演していました。「大阪にすごいバンドがいる」というムードを演出する映像も制作しました。ぼくらがステージで演奏していて、会場が「ワー」「キャー」と大盛り上がりの映像です。
これには裏があります。所属事務所が人気アイドルグループのベイ・シティ・ローラーズの映像を上映するフィルムコンサートを開きました。レイジーはスクリーンの向こう側で待機です。コンサートの最後、スクリーンを上げてレイジーがベイ・シティ・ローラーズの曲を弾き始める。すると「無名のバンドが勝手に弾くな!」とファンは大激怒しますが、ちょっと引いて撮影すると盛り上がっているように見えました。
とあるくらいですから、当時の葛藤は目に浮かびます。。
そして、3枚目のシングル『赤頭巾ちゃん御用心』でオリコン32位になり、やっと一躍有名になりました。
その曲がこちら。
現在のラウドネスだけしか知らない人が見たら衝撃的な映像ですよ。
私の感想としては、あんなにゴリゴリにアイドル設定を事務所が決めたのに、持っているギターが『フライングV』というのがウケました。いや、笑ってはいけません。。それにしてもあんなメタル御用達の攻撃的なギターをよくぞ事務所が許しましたよね。
それだけ見ても、本人たちがやりたい音楽と、事務所のやりたい音楽のギャップが激しすぎというのが見てとれます。
後に作家になる伊集院静との出会い
「君たち、本当はどんな音楽がやりたいんだ」。事務所の紹介でプロデューサーに就いたのは、後に作家になる伊集院静さん。「ハードロックがやりたいです」。答えは明快でした。「やってみればいいじゃないか」となり、本来のハードロック回帰を狙ったアルバム『宇宙船地球号』を制作。
その頃から、事務所と揉めることが多くなり、そのアルバム制作にはスタッフが誰も来なくなるという状態に。
更に、メンバー間の音楽性の違いも明確になりはじめた頃でした。
高崎晃と樋口宗孝と田中宏幸はさらに激しさを追求したい。景山(影山ヒロノブ)はソロ。「アダルト・オリエンテッド・ロック(AOR)」に傾倒していました。
そんな中、当時の藤田社長が「もうさ、君たち解散したらいいじゃない」と切り出し、メンバーはあっさり承諾しました。
1981年5月31日に正式に解散した。
デビューのチャンスをくれた、かまやつひろし氏(ムッシュかまやつ)に解散する報告をしに行ったら、「うーん。。」と唸ったあとおもむろに「ディスコに行こうか」となってみんなで踊り狂ったといいます。
恐るべし、ムッシュかまやつ。
それぞれの道を歩きはじめる
ベースの田中宏幸はラウドネスのデビュー前に音楽性の違いから脱退。
結果、高崎晃の幼馴染みの『山下昌良』が正式にベースとして加入。
その山下昌良が推薦した、元アースシェイカーのボーカル『二井原実』が入り、1981年日本コロンビアより『THE BIRTHDAY EVE 〜誕生前夜〜』でデビューを果たす。
と、やっとここでラウドネスの話になります。
いかがだったでしょうか。
今回の情報でいちばん貢献したのが、日経スタイルから仕事人秘録セレクションのコーナーでたまたま見つけた井上俊次特集です。
元々、アニソンの夜明けが知りたくて調べてたらまさかの元レイジーのメンバーだったというね。
https://style.nikkei.com/article/DGXZZO59810050R00C20A6000000?channel=DF180320167079&nra
本人解説である内容は心情や状況がめちゃくちゃ細かく綴られており、音楽会社とのやりとりを筆頭に芸能界の生々しさがダイレクトに書かれていますので、ラウドネスファン以外もおすすめです。
次はラウドネスの紹介ブログで会いましょう。
良いメタルライフを。